先月29日から昨日まで仙台で力仕事をしてきました。恒例の引越しです。少々筋肉痛です。
ようやく主人が東京へ戻ってきました!(IMAは1年早くここ目白へ)。
東日本大震災発生から丸三年以上、よく頑張ったねと主人を労わりたい気持ちでいっぱいです。
仙台定禅寺通り
津波ですべてを流された沿岸部の農地を、以前よりももっと豊穣な土地にすべく、熱い思いと共に
力いっぱい働いてくれました。今年の秋には100%の水田に黄金色の稲穂が揺れるはずです。
元旦付の仙台異動は長い官僚生活ではじめてのことでした。仙台市内の住宅には空きがなく、
最初の4か月は多賀城市の官舎で生活しました。松島や塩釜に近く被害も大きかったエリアで、
近くの中学校の敷地の一部に建てられた仮設住宅の前を通るたびに胸が痛んだものでした。
巨大地震に耐えた 古い映画館
落ち込んだ時に 何度もお世話になりました
定禅寺通り沿いにはブルーのシートで覆われたビルが痛々しく立っていて、杜の都仙台はどこに
いってしまったんだろうとグレイな気持ちになったものです。
そんな仙台生活の毎日で幾度となく耳にし目にしたのが、「負けるな宮城」「頑張ろう東北」
というスローガンと、人々が囁く「あきらめる」というフレーズです。
毎日家族で力を合わせて 美味しい食事を準備してくれてます
NHKほぼ隣 お昼だけの営業です
あきらめろって言われるんだけどさ・・・家も家族もばらばらだよ
うん・・・
でもさ、そんなことしたら、これまでのこと全部なかったことになるっちゃ?
あきらめるってえらい難しいさ
うん・・・
頑張るほうがうんと楽じゃねえの
頑張ってあきらめるっちゃないか(泣き笑い)
ん・・・あきらめるっちゃ(泣き笑い)
仙台最後の思い出にケヤキ並木をぶらぶらしていたら、こんな会話を思い出しました。
NHK仙台放送の裏の公園
二人のりのブランコが のってくれる二人を待っています
~今日は大谷大学の「生活の中の仏教用語」から「諦める」についてをご紹介しますね~
今、日本語で「諦める」といえば、自分の願いごとが叶わずそれへの思いを断ち切る、
という意味で使われるのが一般だ。しかし、「諦観」「諦聴」といった熟語の「つまびらかに見る聞く」
にみられるように「つまびらかにする、明らかにする」が本来の意味である。
ものごとに道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、
納得して断念する、という思考のプロセスをそこに見出せる。
単に「あきらめる」だけであれば、悔い、怨み、愚痴が残る。
ものごとの道理が明らかになった上でのことならば、納得しての「諦め」となる。
ややもすると、我々は、自分の苦悩は社会が悪いから、あの人のせいだからしょうがないと言って、
「あきらめる」ことでよしとする。
逆に、それは自分の欲望、無知に基因すると「諦める」ことができれば、現状を受け入れ、
解決の方法をみつけやすい。
勾当台公園の花時計
傷ついた心のいちばん効く薬は 時薬かもしれません
人を好きになれば様々な感情を向き合う場面にも出会います。どうしようもない切なさに打ちのめされる
時だってあるでしょう。自暴自棄になる人がいても不思議ではありません。でも、そんな複雑な感情に
決着をつけない限り次の出会いは訪れないかもしれないのです。
勾当台公園の男女
だから、諦める。もっと幸せになるために諦める。
きっと、あの日のあの時のお二人も、きちんと諦めて新たな道を歩まれていることと思います。
そして、絶対にあの日よりも幸せになっていると信じます。
多くの教えをいただいた仙台での日々に、主人ともども感謝いたします。
本当にありがとうございました。
そして、もちろん!これからも東北を応援してまいります。
いつもフレッシュな気持ちで
新しい出会いのために